菅原文太さん

  1. 概要
  2. プロフィール
    1. 1933年(昭和8年)8月16日 誕生
    2. 1943年(昭和18年)宮城県へ疎開
    3. 1949年(昭和24年)(16歳)宮城県仙台第一高等学校に入学
    4. 1952年(昭和27年)(19歳)早稲田大学第二法学部法学科に入学
    5. 1954年(昭和29年)(21歳)劇団四季に1期生として入団
    6. 1955年(昭和30年)(22歳)早稲田大学を中退
    7. 1956年(昭和31年)(23歳)東宝映画『哀愁の街に霧が降る』でデビュー
    8. 1957年(昭和32年)(24歳)SOSモデルエージェンシーを設立
    9. 1958年(昭和33年)(25歳)新東宝に入社。本格映画出演。
    10. 1961年(昭和36年)(28歳)松竹へ移籍
    11. 1966年(昭和41年)(33歳)文子夫人と結婚
    12. 1967年(昭和42年)(34歳)東映へ移籍
    13. 1969年(昭和44年)(36歳)東映での初主役作『現代やくざ 与太者の掟』
    14. 1973年(昭和48年)(40歳)『仁義なき戦い』シリーズ
    15. 1980年(昭和55年)(47歳)テレビドラマ出演
    16. 1988年(平成10年)(55歳)岐阜県へ移住
    17. 2001年(平成13年)(58歳)長男を亡くす
    18. 2003年(平成15年)(60歳)復帰
    19. 2007年(平成19年)(64歳)膀胱癌
    20. 2009年(平成21年)(66歳)俳優業は「半分引退した」と語った。
    21. 2012年(平成24年)(80歳)俳優引退
    22. 2012年7月(平成24年)(80歳)アニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』出演。(遺作)
    23. 2014年11月28日(81歳)死去
  3. 死後に寄せられたコメント
          1. 千葉真一氏
          2. 松方弘樹
          3. 梅宮辰夫
    1. 愛川欽也(映画『トラック野郎シリーズ』で共演)
    2. 岩井俊二
  4. エピソード

概要

菅原 文太(すがわら ぶんた)さんは、1933年(昭和8年)8月16日 生まれ、 2014年(平成26年)11月28日没。81歳没。日本の俳優・声優・ラジオパーソナリティ・農業従事者。宮城県仙台市出身。愛称は文ちゃん、文太兄い。

その後の俳優としての出演作品は非常に多く、映画のシリーズものとしては具体的には『現代やくざ』シリーズ、『関東テキヤ一家』シリーズ、『まむしの兄弟』シリーズ、『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズなどがある。俳優としていわゆる「下積み」の時代が長かったが、39歳の時に公開された映画『仁義なき戦い』の大ヒットで有名になり、俳優としての地位を確立した。特に『仁義なき戦い』シリーズと『トラック野郎』シリーズは大人気シリーズとなり一世を風靡した。

『太陽を盗んだ男』の演技により、1980年、第3回日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。テレビドラマでも活躍し、NHKの大河ドラマにも複数出演、『獅子の時代』では主人公の平沼銑次を演じた。劇場版アニメ『千と千尋の神隠し』や『ゲド戦記』にも声で出演。


60代に入ると田舎暮らしや農業へと関心が向かい、1998年には岐阜県大野郡清見村(現・高山市)に移住、2009年から山梨県へ移り農業生産法人「竜土自然農園おひさまの里」を設立し、農産物の生産に従事。有機農業に取り組み、食の安全や命の大切さを人々に訴えた。

菅原 文太(すがわら ぶんた)さんは、1933年(昭和8年)8月16日 生まれ、 2014年(平成26年)11月28日没。81歳没。日本の俳優・声優・ラジオパーソナリティ・農業従事者。宮城県仙台市出身。愛称は文ちゃん、文太兄い。

その後の俳優としての出演作品は非常に多く、映画のシリーズものとしては具体的には『現代やくざ』シリーズ、『関東テキヤ一家』シリーズ、『まむしの兄弟』シリーズ、『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズなどがある。俳優としていわゆる「下積み」の時代が長かったが、39歳の時に公開された映画『仁義なき戦い』の大ヒットで有名になり、俳優としての地位を確立した。特に『仁義なき戦い』シリーズと『トラック野郎』シリーズは大人気シリーズとなり一世を風靡した。

『太陽を盗んだ男』の演技により、1980年、第3回日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。テレビドラマでも活躍し、NHKの大河ドラマにも複数出演、『獅子の時代』では主人公の平沼銑次を演じた。劇場版アニメ『千と千尋の神隠し』や『ゲド戦記』にも声で出演。

60代に入ると田舎暮らしや農業へと関心が向かい、1998年には岐阜県大野郡清見村(現・高山市)に移住、2009年から山梨県へ移り農業生産法人「竜土自然農園おひさまの里」を設立し、農産物の生産に従事。有機農業に取り組み、食の安全や命の大切さを人々に訴えた。

プロフィール

1933年(昭和8年)8月16日 誕生

宮城県仙台市出身。4歳から小学校4年までは東京府(現 東京都)育ち。

1943年(昭和18年)宮城県へ疎開

1943年(昭和18年)に父親が出征すると、父親の実家がある宮城県栗原郡一迫町(現・栗原市)に疎開し、(旧制)宮城県築館中学校卒業まで同地で過ごした。

1949年(昭和24年)(16歳)宮城県仙台第一高等学校に入学

1949年(昭和24年)、学制改革による新制高校の発足により、県内屈指の名門校である宮城県仙台第一高等学校に入学。同校では同じ新聞部の「劇作家:井上ひさし」がおり、同校に隣接する宮城県第二女子高等学校には、後に共演することとなる若尾文子がいた。

1952年(昭和27年)(19歳)早稲田大学第二法学部法学科に入学

1954年(昭和29年)(21歳)劇団四季に1期生として入団

初期の作品に端役として多数出演した。

1955年(昭和30年)(22歳)早稲田大学を中退

1956年(昭和31年)(23歳)東宝映画『哀愁の街に霧が降る』でデビュー

1957年(昭和32年)(24歳)SOSモデルエージェンシーを設立

1957年(昭和32年)、岡田眞澄・旗昭二・池田二郎ら総勢8名で、日本初の男性専門モデルクラブ・SOSモデルエージェンシー(ソサエティ・オブ・スタイル)を設立。雑誌やショーのファッション・モデルをこなす。その身長(174cm)を活かしファッションモデルとして活躍。 

1958年(昭和33年)(25歳)新東宝に入社。本格映画出演。

1958年(昭和33年)、新東宝に入社。同年『白線秘密地帯』で本格映画出演。長身の新人二枚目スターの一団「ハンサムタワーズ」の一人として、吉田輝雄・高宮敬二・寺島達夫らと共に売り出された。主演作も多かったが、当時の新東宝は経営不振で低予算映画が主力路線だったため、世間的な知名度はそれほど高くなかった。

1961年(昭和36年)(28歳)松竹へ移籍

1961年(昭和36年)に新東宝が倒産したため、ハンサムタワーズのメンバーと共に松竹へ移籍。メロドラマやホームドラマなど、女優主体の企画が多い松竹では脇役に甘んじる状態が続く。

の暴力団「安藤組」の元組長・安藤昇が自身の自叙伝を映画化し主演を演じたが、菅原さんは子分に抜擢。しかし「女優王国」が売りだった松竹に「ヤクザ映画」は馴染めず、すぐに撤退し、安藤が東映に移籍することになり、菅原さんを引っ張っていったという。これが菅原さんの転機となり、大スターになっていく。

1966年(昭和41年)(33歳)文子夫人と結婚

1967年(昭和42年)(34歳)東映へ移籍

川義寛監督の下宿を訪ねることもあったといい、東映京都撮影所作品『怪猫呪いの沼』(1968年)での端役も、石川監督が気の毒がって起用したものだったという

1969年(昭和44年)(36歳)東映での初主役作『現代やくざ 与太者の掟』

ざ』シリーズは1972年(昭和47年)まで続く作品群で、ヤクザを美化した従来の任侠映画ではなく、現実的な「ワル」を主人公にしたものであり、後の実録映画の先駆けとなった。また、同年には『関東テキヤ一家』シリーズ、1971年(昭和46年)からは『まむしの兄弟』シリーズに主演。

1973年(昭和48年)(40歳)『仁義なき戦い』シリーズ

1973年(昭和48年)から始まった『仁義なき戦い』シリーズで、東映を代表するスターのひとりになった。映画史に残る作品にもなったこのシリーズのヒットで東映は任侠路線から実録路線に転換、1974年(昭和49年)末からスタートした『新仁義なき戦い』シリーズや1975年(昭和50年)に始まる『トラック野郎』シリーズ(一番星・星桃次郎 役)もヒットした。

1980年(昭和55年)(47歳)テレビドラマ出演

宝時代より長らく映画に専念してきたが、1980年(昭和55年)に大河ドラマ『獅子の時代』に主演。その後、大河ドラマでは『武田信玄』の板垣信方、『徳川慶喜』の徳川斉昭、『元禄繚乱』の細川越中守綱利、『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の前田利昌で出演した。1981年(昭和56年)に映画『青春の門』、『炎のごとく』に主演。その後は刑事ドラマなど、テレビドラマの主演・助演をしていた。東映時代は接点がなかった市川崑作品でも常連となっている。

1988年(平成10年)(55歳)岐阜県へ移住

1998年(平成10年)から約10年間、岐阜県大野郡清見村(現在の高山市清見町)に移住[20]。農業政策等に高い関心を示し、多数の講演活動も行った。また、ナレーター・アニメーション・コンピュータゲームの声優もこなすなど、幅広く活躍した。

2001年(平成13年)(58歳)長男を亡くす

2001年(平成13年)に俳優の長男菅原加織を鉄道の踏切事故で亡くし、周囲に「もう仕事したくない」と漏らしていた。

2003年(平成15年)(60歳)復帰

2003年(平成15年)放送のテレビドラマ『高原へいらっしゃい』で復帰。同年公開の映画『わたしのグランパ』で9年ぶりの最後の主演を果たした。

2007年(平成19年)(64歳)膀胱癌

2007年(平成19年)に膀胱癌が判明し、筑波大学附属病院にて手術せずに放射線や陽子線治療による膀胱温存療法を受けた。

2009年(平成21年)(66歳)俳優業は「半分引退した」と語った。

2009年(平成21年)より山梨県韮崎市で耕作放棄地を使って農業を始める。当時、俳優業は「半分引退した」と語った。


2012年(平成24年)2月初旬、2013年1月に公開予定の『東京家族』(監督・山田洋次)主演から既に降板したことを発表。2月23日に都内で行われた「第64回日本消防協会定例表彰式」に出席した際にプレスインタビューに応じて映画を降板した理由として、クランクイン直前に東日本大震災が発生。故郷の宮城県をはじめ被災地で、公私ともに苦しい生活の続く人々が多いなか「どういうテーマであれ、今は映画を撮っている時じゃない。それは(山田洋次)監督も同じ考えだった」と語った。菅原はこの席で震災以後、劇映画の存在理由が見いだせないことを語った上で、自身が震災直前まで都内の病院に入院していたことも告白している[24]。

2012年(平成24年)(80歳)俳優引退

2012年(平成24年)11月13日、菅原が名誉顧問を務める民間非営利団体「ふるさと回帰支援センター」の設立10周年記念講演の席上で、56年に及ぶ役者生活にピリオドを打った旨を明らかにした。この時「デジタルはお断り」というコメントも発表しており、映像製作環境の変化にも言及している。12月5日には有志らとともに国民運動グループ「いのちの党」を結成し、代表として活動した。なお、「いのちの党」と名称が付いているが、あくまで「仲間の集まり」の意であって政界進出を意識してのものではないという。また、以前より噂されていた政界への進出は完全否定をした。https://www.youtube.com/embed/dpL4jyQI0mc?feature=oembed

入院直前の11月1日には、沖縄知事選候補の翁長雄志の応援演説に出席していた。この時の菅原文太の演説は、県知事選の流れを決定的に変えるものだったと言われている。 また、自分の「がん完治」体験を元に、「がん克服」をテーマにした講演を入院直前まで度々行っている。

第46回衆議院議員総選挙(12月16日投票)にあたっては、小沢一郎らが結党した日本未来の党の賛同者に名を連ねたほか、松本龍の個人演説会で応援演説を行なった。

2012年7月(平成24年)(80歳)アニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』出演。(遺作)

引退宣言以降もラジオでレギュラー番組『菅原文太 日本人の底力』のパーソナリティ、テレビドキュメンタリーのナレーターやCM出演などは務めており、2012年7月公開のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』にも声優として出演。結果的にこれが菅原の遺作となった。

2014年11月28日(81歳)死去

2014年11月13日に定期健診で病院へ行きそのまま入院。入院中に高倉健の死去(2014年11月10日没)を知り、『健さん、東映、映画のことは時間を置いて自分で(思いを)書きます』と関係者に伝えていたという。しかし11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全により東京都内の病院で死去。享年82(満81歳没)。なお、亡くなったのは都内の病院だが、晩年は福岡市内に持っていた自宅マンションで過ごしていたと報じられている。息を引き取った後、遺体は福岡に運ばれた。

11月30日に生まれ故郷の仙台ではなく、福岡県太宰府市の太宰府天満宮祖霊殿で家族葬を行った。12月1日、菅原文太の死去を発表するに際し、妻が東映を通じてコメントを発表した。高倉と並び東映任侠映画の巨頭として、ブームの立役者であった菅原も高倉の後を追うかのように鬼籍に入った。

太宰府天満宮祖霊殿には、2001年に亡くなった長男、加織さんの遺骨が納められている。加織さんは生前、神道を信仰していた。もともと神道だった菅原さんは、関西圏にある大きな某大社に、息子さんの葬儀をお願いする。しかし、その大社には受け入れてもらえず、そこで紹介されたのが、太宰府天満宮だったという。同じ“菅原”姓の菅原道真を祭神としてまつり、全国天満宮の総本社であるこの地に、息子を眠らせたのだ。

「納骨からまもなく、文太さんは天満宮の近くにマンションを購入しました。“息子の側にいたいから”って、仕事がないときはここで暮らし始めたんです。息子さんの眠る祖霊殿にも、夫婦でよく参拝されていました」「“先立った息子と同じ場所で眠りたい”って、ずっと言っていましたから。納骨もこちらで済ます予定だそうです。文太さん、息子さんが亡くなってからは、天満宮の神徒会に入会されていたんですよ。奥さんもまた、元々はクリスチャンだったんですが、息子さんの死をきっかけに神道に転宗されています。ご夫婦にとって、ここは息子さんとの“約束の地”となっていたんです」(前出・文太さんの知人)

墓参りは欠かさなかったと言う。親交の深かった「夜回り先生」こと水谷修さんは12月2日放送の「ワイド!スクランブル」(テレビ朝日系)の中でこう話した。

「ほんとに頻繁な時には年に数回(足を運んでいた)。文太のおじさんはとにかく飛行機が嫌いなんです。ですから必ず行きは新幹線で行くんですけど、『5~6時間(も乗るのは)きつい』と。必ず京都で一泊お泊りになって奥様とおいしい食事を食べ、(太宰府に)行かれ、また帰りに京都で一泊して戻ってこられてました」

2014年3月14日の宇津井健の死去を受け、菅原は追悼文を寄せている。

死後に寄せられたコメント

千葉真一氏

「(高倉)健さんに続いてなので、自分が滅入ってしまいます。もっと元気でいてほしかった。お二人とも日本の宝ですから。寂しい、その一語です」

千葉真一とは『日本暗殺秘録』『仁義なき戦い 広島死闘篇』など映画10作品とテレビドラマ1作品で共演し、千葉が監督した『リメインズ 美しき勇者たち』に菅原が出演するなど、公私共に親交があった。菅原の訃報を聞いた千葉は「(高倉)健さんに続いてなので、自分が滅入ってしまいます。もっと元気でいてほしかった。お二人とも日本の宝ですから。寂しい、その一語です」と悲しみに暮れた。

松方弘樹

「追いつきたかった先輩だが、自分のピークの時にも脇に回ってくれ、そういう度量の大きさと裏表がない人だった。早いよ…」

『仁義なき戦い』『県警対組織暴力』などで共演し、プライベートでもよく酒を飲み交わしていたという松方弘樹は「追いつきたかった先輩だが、自分のピークの時にも脇に回ってくれ、そういう度量の大きさと裏表がない人だった。早いよ…」と天を仰いだ。、

梅宮辰夫

「妻と初めてデートした時に付き合ってくれて、黙って飲んでいた。残り少ない昭和の映画スターが消えていくのは悔しいし悲しい」

同じく梅宮辰夫は「妻と初めてデートした時に付き合ってくれて、黙って飲んでいた。残り少ない昭和の映画スターが消えていくのは悔しいし悲しい」と肩を落とした。

愛川欽也(映画『トラック野郎シリーズ』で共演)

「きょとんとしちゃってるよ。ビックリしてます」「鈴木則文監督も死んじゃったし、(トラック野郎の関係者は)だんだんいなくなるのかな…」

映画『トラック野郎シリーズ』で共演した愛川欽也は菅原の訃報に接して記者会見を行い、「きょとんとしちゃってるよ。ビックリしてます」と驚き、「鈴木則文監督も死んじゃったし、(トラック野郎の関係者は)だんだんいなくなるのかな…」とショックを隠しきれない様子で故人を偲んだ。愛川も菅原の後を追うかのように、翌2015年4月15日に死去(享年80)している。

岩井俊二

「母校仙台一高の先輩でした」とし、ツイッターで1本の動画を紹介した。11月1日、沖縄知事選に立候補して当選した翁長雄志氏の応援にかけつけた菅原さんが「政治の役割は2つあります。1つは国民を飢えさせないこと。もう1つは絶対に戦争をしないこと」と力強く訴える姿が映ったもので、岩井さんは「わずかひと月前の沖縄知事選での勇姿。… 本当に最後まで偉大な先輩でした」と感慨深げにつぶやいた。

同じく共演したせんだみつおは「すごい知的な方で、学校の先生のような口調でお話下さいました。寂しくて寂しくてしょうがない。6年前に会ったのが最後で『頑張れよ、せんだ。トラック野郎なんだからな!』と激励されたのが最後の言葉でした」と涙ながらに語った[39][40]。
東映からは、岡田裕介が「(高倉に続き)また一本の矢が折れました。我が東映は、一丸となり折れない三本目の矢となる決意です」、高岩淡は「あのような俳優さんは二度と出ない。彼が京都で悪戦苦闘してくれたおかげで、東映は任侠映画から実録映画に移行することができた」、菅原主演の『まむしの兄弟シリーズ』を監督した中島貞夫は「監督と役者というより友達の間柄。今年5月に『俺たちも年をとったな』と対談企画が最後になるとは…。ショックだが今はただお疲れさんと言いたい」とそれぞれ追悼した[41]。菅原の付き人を務めていた宇梶剛士は「菅原文太という人は、いつでも弱き者の味方でした」と“芸能界の父親”をしのんだ[42]。このほかには吉永小百合・泉谷しげる・志村けん・小林幸子・はるな愛ら映画やバラエティ番組、CMなどで共演した芸能人や、スポーツ界から王貞治・アントニオ猪木・大久保博元らの追悼が寄せられた。

エピソード

  • 父親としての一言を持ち、「げんこつおやじの会」を立ち上げた。また、若い女性の起用に偏重する近年の日本の芸能、マスメディアの風潮に批判的であり、そのために断る仕事も多かったという。
  • 三船敏郎を尊敬し「富士山のような存在」と賞賛していた。鶴田浩二とも共演が多かった。安藤昇とは、渋谷で交友を重ね、一緒に松竹入りしている。渥美清とは偶然、本屋で会っている。若山富三郎については「殴られたり散々されたけど、俺はやはりあの人が好きだった」と語っている。石原裕次郎とは同時期にデビューしたが共演経験は無い。石原慎太郎を「ボケ老人だね、アイツ。」と評した。
    井上ひさしとは同じ高校の先輩後輩で親友であり、代表作「吉里吉里人」の映画化権を預かっていて、菅原自身が自らのプロデュースで映画化すべく奔走していたが、実現することなく死去した。
  • 明石家さんまは自他ともに認める菅原の大ファン。『仁義なき戦い』第一作の土居組組長を射殺するシーンが特に好きで、「冷たい雨の中、肩をすぼめて眉間に皺を寄せ、煙草を吹かし標的を待つシーンをよく真似た」と語っている。「高校時代『夜桜銀次』と呼ばれていたんですよ」と菅原本人に見栄を張ったことも。まだ若手だった頃に空港で菅原に会い、サインを頼んだところ「俺が代わりに欲しいくらいだよ」と言われた話は、後年さんまが何度も披露している。
  • 演出した深作欣二の臨終を親族と共に看取っており、葬儀では弔辞を読んだ。公開直後には自宅に少年が訪ねて来て「おやじさん、山守は絶対、俺が撃ってきますけん」と言うので「ありがとう、まあ、ラーメンでも食いに行こう」と連れ出して説得して帰ってもらった[44]。撮影中にも広島のヤクザ・不良から、道を譲ってもらったりして大変世話になったが、後に山口組の納会に出席していたのを「FOCUS」に撮られ、写真入りで報道された。2014年12月原作者の飯干晃一はこの時の菅原を、「ヤクザの広告塔に利用されている」とワイドショーでコメントしている。
  •  ビートたけしが健さんと文太の違いをこう述べている。 「一言でいうと、菅原文太さんは『二面性の役者』で、高倉健さんは『一本柱の役者』じゃないかな。文太さんは73年から『仁義なき戦い』、75年から『トラック野郎』の両輪で活躍した。『2つの当たり役を同時につかんだ』なんていわれてるけど、そんな生易しいもんじゃない」

同じく梅宮辰夫は「妻と初めてデートした時に付き合ってくれて、黙って飲んでいた。残り少ない昭和の映画スターが消えていくのは悔しいし悲しい」と肩を落とした。

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