- 概要
- プロフィール
- 1931年11月1日誕生
- 1935年(昭和10年)(4歳)
- 1944年(昭和19年)(13歳)
- 19XX年(昭和XX年)(XX歳)
- 1959年(昭和34年)(28歳)
- 1962年(昭和37年)(30歳)ザ・ドリフターズ結成
- 1964年(昭和39年)(30歳)仲本工事、高木ブー、荒井注を加えてザ・ドリフターズを再編
- 1966年(昭和41年)(34歳)ビートルズの日本武道館公演の前座
- 1969年(昭和44年)(38歳)8時だョ!全員集合 放送開始
- 1974年(昭和49年)(42歳)荒井注、ドリフ脱退。志村けん加入。
- 1985年(昭和59年)(53歳)『全員集合』が放送終了、俳優活動開始
- 1998年(平成11年)(66歳)踊る大捜査線 THE MOVIE
- 2000年(平成12年)(68歳)荒井注が急逝
- 2003年(平成15年)(71歳)踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!
- 2003年(平成15年)(71歳)緊急入院
- 2004年3月20日(平成16年)(72歳)死去
- 加藤茶の弔辞
概要
いかりや 長介( ちょうすけ、1931年11月1日 - 2004年3月20日)は、日本の男性コメディアン、ミュージシャン(ベーシスト)、俳優、司会者。「ザ・ドリフターズ(略称:ドリフ)」の3代目リーダー。後年は俳優としても活動した。本名は碇矢長一。
愛称は「長さん」。ドリフ時代初期は芸名を「いかり矢 長介」としていた。ドリフ映画で使われる呼び名は「ゴリラ」「下唇」。身長175.2cm。
東京府・東京市本所区中之郷横川町(現・東京都・墨田区東駒形)生まれ。渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに所属し、没後もイザワオフィス所属扱いとなっている[注釈 1]。
プロフィール
1931年11月1日誕生
父・碇矢一郎(1908年〜1995年)と母・よね(1909年〜1936年)の長男として、東京市本所区中之郷横川町の病院で、体重3,760gで生まれ、ラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられた。
1935年(昭和10年)(4歳)
4歳の時、母が結核で病死(なお約10年後には弟も死去[6])、このため彼は祖母に育てられた。本所区横川国民学校(現在の墨田区立横川小学校)卒業。国民学校時代の教師に書道家の井上有一がいる。父は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中で、この父について「私に一番影響を与えた、傑作な人物」と語っている。
1944年、戦争の激化に伴って静岡県の原田村(現・富士市東滝川町)へ疎開し、同地の国民学校高等科(現・富士市立吉原第三中学校)へ入学。翌年に同地で終戦を迎えた。以降、父は86歳で急逝するまで生涯この地から離れることはなかった。
1944年(昭和19年)(13歳)
1944年、戦争の激化に伴って静岡県の原田村(現・富士市東滝川町)へ疎開し、同地の国民学校高等科(現・富士市立吉原第三中学校)へ入学。翌年に同地で終戦を迎えた。以降、父は86歳で急逝するまで生涯この地から離れることはなかった。
19XX年(昭和XX年)(XX歳)
わずか8年のみの設置であった静岡県立吉原高等学校定時制課程吉永分校(1950年4月設置、1955年4月生徒募集停止、1958年3月廃校)に進学したが、中退後に静岡の春日製紙に勤務しながら同僚とハワイアンバンドを組み、ダンスホールで活動していた。元々はスティール・ギターを担当していたが、後にベースに転向。当時のバンド仲間に元プロ野球選手の田村満がいる[8]。そもそも音楽を始めた動機は女性にモテたいからであり、父から「食えるわけないから辞めろ」と反対されたとのこと。
1959年(昭和34年)(28歳)
1959年にミュージシャンを目指して上京、最初の妻とともに新宿二丁目のアパートで暮らす。ミッキー・カーチスが在籍していたロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加後、ジミー時田や寺内タケシが在籍していたカントリーウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にベーシストとして加わり、立川・横須賀・横田の米軍キャンプで披露していた。
1962年(昭和37年)(30歳)ザ・ドリフターズ結成
しかし1961年12月31日、巡業の往路で交通事故を起こしたことで所属事務所と関係が悪化し、1962年に「マウンテン・プレイボーイズ」を脱退後、小野ヤスシが在籍していた「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加。加藤茶と同時期の加入となった。のちに芸能界を引退しプロモーターに転身した桜井からいかりやにリーダーが交代し「碇矢長一とザ・ドリフターズ」にグループ名を改称。
1964年(昭和39年)(30歳)仲本工事、高木ブー、荒井注を加えてザ・ドリフターズを再編
いかりやリーダー体制を敷いた後、いかりやと対立した小野ら4人がドリフを脱退し、ドンキーカルテットを結成した。1964年に高木ブー、荒井注、石川サダオを加えて、脱退せず残った小山威、加藤茶、綱木文夫との7人で新生ザ・ドリフターズとして活動再開し、直後に小山、石川が脱退。1965年に仲本工事が加入し、その後に綱木が脱退したが、メンバーを補充せず、いかりや・加藤・荒井・高木・仲本の5人体制となった。
綱木脱退直後、ドリフは渡辺プロダクション(ナベプロ)所属となり、ナベプロは当時人気絶頂だったハナ肇とクレージーキャッツの後輩として、大々的に売り出した。ただし、いかりや自身が後に自著のあとがきで「師匠に付いたことはない」と記述している通り、クレージーの直弟子であったわけではない。なお、クレージーとの初対面の時に、クレージーのリーダーであったハナ肇から「いかりや長介」の芸名を与えられ(本名の長一より長介のほうが響きが良いという理由)[9]、以来その芸名で通すことになった。
1966年(昭和41年)(34歳)ビートルズの日本武道館公演の前座
1966年、ドリフはビートルズの日本武道館公演の前座としてステージに上がり、仲本のヴォーカルで『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)を演奏した。
晩年出演したテレビCM(キリン・ラガー)では、エレクトリック・アップライト・ベースを演奏している。その際に撮影されたスチル写真が遺影に使われた。ベースライン自体は、スタジオミュージシャンの渡辺等の手によるものであった。
バンド時代のあだ名は「幡随院長兵衛」をもじって「バンス院長兵衛」。バンスとは、バンドの符丁でギャラの前借り(advanceより)のこと。当時のいかりやは、借金がかさんでいた。長兵衛は本名の長一から。いかりや逝去の際、バンド時代から親交の深かった立川談志が、追悼コメントで「ヤツ(いかりや長介)を今時『長兵衛』と呼ぶのも、もう俺ぐらいしかいない(=それだけ付き合いが古かった)」と語っていた。
1969年(昭和44年)(38歳)8時だョ!全員集合 放送開始
ドリフはTBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で大人気となった。1979年にドリフのマネージャーだった井澤健がナベプロから独立し、ナベプロから暖簾分け(非連結関連企業)の形で「イザワオフィス」を設立。ドリフはイザワオフィス所属となった、また私生活では前年の7月15日に離婚していた。
『8時だョ!全員集合』
TBS当時のTBSは’裏番組『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)の影響で視聴率が低迷していた。そこで、この枠で視聴率の取れる番組を制作すべく、前枠番組『お笑い頭の体操』を成功させていたTBSプロデューサー・居作昌果に白羽の矢が立った。
居作は企画作成の際に、まず裏番組に出演するコント55号の事を考えた。55号の持ち味である「スピード感と即興力」に対抗するには、「時間をかけて練りに練り上げた笑い」しかないと考え、レギュラー出演者にザ・ドリフターズの起用を決めた。ドリフを起用したのは、「リーダーのいかりや長介は(アドリブに長けた55号に比べて)不器用で口下手だが、ギャグを考えるのが大好き」だったからだという。ところが、当時のTBS社内でのドリフの評価は低く、編成から反対の声が多数上がった。
その後、「ドリフがジャズ喫茶時代から客前でネタをやるのに慣れている」「会場にいる観客を笑わせられなくて、視聴者を笑わせられるはずがない」として、収録を劇場・ホールでの公開形式とすること、「視聴者に『番組が今、実際に行われている』という臨場感を持ってほしい」「出演者にNGが効かない緊張感を味わってほしい」という理由から生放送で行うことをそれぞれ決定、「ドリフをメインと
番組タイトルの『8時だョ!全員集合』は、系列局やスポンサーを交えての企画説明会議で、スポンサーのライオン油脂(現・ライオン)の広告部長が、「8時になったら、テレビの前にみんな集まるような番組を作って欲しい」と発言し、それを聞いた居作がその場で思い付いたものである。
1969年10月4日、番組はスタートを切った。この年の10月はドリフが新宿コマ劇場で公演を行っていたことから、初回から10月25日放送分までの4回分は、9月に事前収録となった。
開始当初はドリフによるコントだけでなく、作曲家の山本直純を起用しての音楽コーナーやゲストを招いてのトークコーナー、巨大滑り台セットを使用してのクイズコーナー「ドリフでドボン」があった。
こうして10月に放送された4回分の平均視聴率は約14%(初回視聴率は12.9%)で、これまでの番組と比べればまずまずの結果を収めた。しかし、VTRをチェックしていく中でドリフが苦手としているコーナーが多かったことがわかり、コント以外のコーナーを年内一杯で廃止。特に「ドリフでドボン」のセットに使われた巨大滑り台は制作費が高く、3ヶ月で終わらせることにTBS社内から顰蹙を買ったという。これらに代わって1970年より「ベスト100」(後の後半コント)を開始した。
視聴率は悪くなく、観客からの受けも良かったものの、裏番組の『コント55号の世界は笑う』は依然として視聴率が高く、居作はその打開策を考えていた。その中で「視聴率に繋がらないのは、チャンネル選びの習慣性によるものだ」という意見を聞いた居作は、視聴率が習慣によるものなのかどうかを実験すべく、当時のTBSの人気番組の出演者をゲストに呼び、コントに参加させることを思いつく。その手始めとして、1970年1月24日に『サインはV』のメンバー(岡田可愛、中山麻理、范文雀、岸ユキなど)がゲスト出演、するとこの回の視聴率は一気に27%に上昇。さらに、翌1月31日に『柔道一直線』の主演・桜木健一を、その翌々週2月14日は『キイハンター』から丹波哲郎、野際陽子らをゲストに招いた。しかし、この中の空いた1週(2月7日)、つまり人気番組のゲストのいない回こそが居作の狙い目であり、この回の視聴率が良ければ視聴者が視聴習慣を変えたことになり、逆に悪ければ失敗と踏んでいた。この結果、2月7日放送分の視聴率は25%を記録し実験は成功。こうして当番組は「お化け番組」と呼ばれるまでの人気を獲得していくことになった[1]。
大がかりな舞台装置を使ったテンポのよい爆笑コントで子どもたちから絶大な人気を誇り、番組の中から「オイッス!」「だめだこりゃ」「ちょっとだけよ」「カラスの勝手でしょ」といった流行ギャグや「いい湯だな」「ドリフのズンドコ節」などのヒット曲を生み出した。PTAから“俗悪番組”とされ非難も浴びたが、最高視聴率50.5%、13年連続平均視聴率30%以上という大記録をうち立て、“お化け番組”と呼ばれた。
1974年(昭和49年)(42歳)荒井注、ドリフ脱退。志村けん加入。
1985年(昭和59年)(53歳)『全員集合』が放送終了、俳優活動開始
1985年『全員集合』が放送終了し、俳優としての活動を始めた。
1985年7月19日、TBSが「1985年9月限りで『全員集合』を終了する」と正式に発表。 TBSは番組終了発表の中で「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。 ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げていた。1985年9月28日、通算16年間・803回の歴史に幕を閉じた。34.0%の高視聴率を記録した[3]。
1985年、俳優としての活動を開始。1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で鬼庭左月斎役を演じ注目される。
1990年、黒澤明の新作映画『夢』に出演。第7話「鬼哭」で、放射能汚染で荒野と化した世界を苦しみながら彷徨う1本角の鬼を演じた。
1994年より始まった日本テレビの火曜サスペンス劇場・『取調室』シリーズでは、佐賀県警本部捜査一課の警部補・水木正一郎を演じ、佐賀県の観光振興をするとともに、本人はこの作品をライフワークと語っていた。
1992年〜1996年のドラマ版『サザエさん』(フジテレビ)では磯野波平役を演じ、1997年に出演した『踊る大捜査線』の和久平八郎役ははまり役として認知された。
1998年のテレビドラマ『聖者の行進』(TBS)では物語のキーマンとなる弁護士・宇野淳市を演じ、1999年の『蘇える金狼』(日本テレビ)では主人公の最大の敵となる悪役・茂義賀津夫を演じた。『踊る大捜査線』に続く、若者向けテレビドラマでの好演で、名脇役としての人気が定着する。
1998年(平成11年)(66歳)踊る大捜査線 THE MOVIE
「踊る大捜査線 THE MOVIE」で日本アカデミー賞助演男優賞を受賞
2000年(平成12年)(68歳)荒井注が急逝
2000年2月、荒井注が急逝した際には、弔辞を読んだ。弔辞の最後、いかりやは荒井に対して「じゃあいずれ」と締めくくった[11]。
2003年(平成15年)(71歳)踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!
2003年(平成15年)(71歳)緊急入院
2003年5月30日、原発不明頸部リンパ節癌により緊急入院。闘病を経て、同年7月17日に一旦退院する。翌々日には『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の映画舞台挨拶に参加し、8月6日に『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ系)のゲスト出演収録でテレビの仕事に復帰する。長男の浩一によると、7月の退院直後に担当医から「余命はもって8ヶ月」であると宣告されていたが、本人には伝えなかったという。12月23日に放送された『40年だよ!ドリフ大爆笑』がいかりやにとって生涯最後のテレビ出演(仕事)となった[13]。
2004年3月20日(平成16年)(72歳)死去
2004年3月15日、癌の転移により東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院に再入院し、3月20日15時30分に死去。満72歳没(享年74)。奇しくも、ドリフの結成40周年という節目の年にこの世を去った。
彼の死は、当日はテレビの速報テロップで伝えられ、同日深夜(20日夜~21日未明)の各局ニュース番組でも報じられた他、翌21日のNHKニュース7ではトップニュースで報じられた。
3月21日、自宅前には午前中から約40人の報道陣が集まり、森光子など生前交友のあった芸能関係者やテレビ局から花が続々と届けられた。谷啓、西条昇、海老名香葉子、田中麗奈らもお悔やみのコメントを出した。
3月23日、通夜にはドリフメンバーである加藤、高木、仲本、志村のほか、踊る大捜査線の共演者である織田裕二、柳葉敏郎、深津絵里、水野美紀、GOOD LUCK!!で共演した木村拓哉らも弔問に駆けつけ、芸能関係者、一般ファン合わせて約3,500人が参列した。通夜会場の周辺には多くのファンが訪れていたが、午後8時になると同時に数ヶ所で、ファンが持ち込んだテープによりいかりやの「8時だョ!」という掛け声が流れ、即座に周囲のファンが「全員集合!!」と合わせた。
3月24日、告別式。喪主は浩一が務め、弔辞は加藤が読んだ。ドリフ時代に仲が悪かったと言われる高木は、葬儀で「バカヤロー!」と叫びながら大泣きしていたという。出棺の際はバッハ作曲のG線上のアリアが流され、『8時だョ!全員集合』のファンは「長さーん」「オイッスー」「次いってみよー」、『踊る大捜査線』のファンは「和久さーん」「和久さーんお疲れ様」と涙ながらに叫んだ。無言で直立不動の最敬礼をしていた者もいた。最後まで涙を抑えていた加藤は、出棺の霊柩車のクラクションの音と共に目頭を押さえたという。
遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で火葬され、その後東京都葛飾区小菅に所在する蓮昌寺に在する碇矢家の墓所に納骨された。
加藤茶の弔辞
長さん…。随分急いで向こうに行っちゃったんだね。あんた、最後の最後に嘘ついたよなぁ。去年の12月に『大爆笑』のオープニング撮るときに久しぶりに会って、「40周年の記念で『全員集合』と『大爆笑』、この2本撮りたいね」って。長さん「いいね」「やろうよ」そう言ったよね。うちのメンバー4人もその気になってたんだよね。だけどその約束を守れないうちに逝っちゃったね。
40年間一生懸命、一生懸命走ってきて絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで一生懸命やってきたんだと思う。本当にご苦労さん。これから俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した、財産だからね。
荒井注さんが亡くなった時、長さん言ってたよな。「俺も、もうじきそっちに行くから、一緒に酒飲もう」って。本当にそんな日が来てしまったな。でもちょっと早すぎたんじゃないか? もう少し我慢してほしかったな。まぁ2人してつもる話もあるだろうけど、あまり深酒しないように。 それから、いきなりそっちから「全員集合!」と言われても俺たち4人は集まれないからね。たぶんそのうち本当に「全員集合」になるかもしれないけど、その時はやっぱりまた向こうでコントをやろうよ。
40年間本当にありがとう。そしてご苦労さんでした。何も心配なくゆっくり休んでちょうだい。さよなら。
https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0009250148_00000