坂上二郎さん

概要

坂上二郎(さかがみ じろう)さんは1934年4月16日生まれ、2011年3月10日没(76歳没)。「コント55号」で国民的人気を集めたコメディアン。俳優、歌手。鹿児島県鹿児島市出身。浅井企画所属。通称「二郎さん」。

プロフィール

1934年4月16日

鹿児島県鹿児島市出身。

2歳 家族で満州国に

家族で満州国に渡り、同国の首都の新京と当時は中華民国の支配下にあった北京で育つ。

小学校1年生 鹿児島に戻る

鹿児島に戻る。鹿児島市立清水中学校 卒業後、鹿児島市内の百貨店・丸屋呉服店に勤務。

1953年(19歳)歌手を目指し上京

昭和28年『のど自慢素人演芸会』で鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京。歌手 青木光一の付き人や島倉千代子の専属司会者を務める。しかしながら、なかなか売れず、漫才を勧められお笑いの世界に入る。

幕間コントで萩本欽一と共演した。萩本と出会ったのは1962年の秋のことだったが、年齢も芸人のキャリアも坂上が上だったこともあって、当時はお互い楽屋で口も利かない関係だった。

1958年(24歳)結婚

1963年頃(29歳)

中川プロダクションに所属。しかし中川プロが大幅なリストラを断行することになり、坂上はその“リストラ要員”に含まれて退所。

1966年(32歳)「コント55号」を結成

萩本と再会し。お笑いコンビ「コント55号」を結成。才能が一気に開花する。萩本欽一の意表を突くツッコミを生真面目かつひょうきんに受け止めるボケっぷり、舞台狭しと駆け回る勢いのあるコントは天下一品。漫才とは違う、テレビカメラが追いつかないほど動き回るコントで、お笑い界に新風を注いだ。コンビ名は王貞治・現ソフトバンク球団会長の本塁打新記録55本(64年)にあやかったなど諸説ある。

初めは歌手を目指したがさっぱり売れず、諦めかけて大型免許を取って転職しようとした矢先、たまたま麻雀のメンバーが足りず萩本に電話をかけたのが55号に繋がった。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場・日本劇場などで人気を博し、当時の演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、一世を風靡することになった。コント55号ではボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売った。「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集める。
また、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』では下ネタを嫌う萩本に対し、率先して汚れ役を引き受け、アイドル歌手やグラビアタレント相手に野球拳を行った。

1972年(38歳)役者活動開始

1972年頃より役者としても活動(コント55号としても活動中)。バラエティー番組等へも出演。多芸ぶりを発揮し、芸能界に確固たる地位を築いた。TBS「夜明けの刑事」(1974-1977年)で初主演。

クイズ番組「ぴったしカン・カン」にも長く出演。

1974年(40歳)「学校の先生」ヒット

コメディアン、俳優と並行して念願の歌手としても活動しており、1974年に『学校の先生』が約30万枚を売り上げてヒット

その後は『風まかせ 新・諸国漫遊記』テーマソングとなる『風まかせ』や、ユニコーンとのコラボレーションである『デーゲーム』などを歌う。美声と独特の節回しで知られる。また、坂上の声が『柿の木坂の家』で有名な青木光一に似ているとも言われる。もともと岡晴夫の持ち歌だった『憧れのハワイ航路』をTVなどで数多く歌っている。

1976年(42歳)コンビとしての活動中断

コンビとしての活動中断。役者として本格活動。

2003年9月(66歳)脳梗塞で倒れる

ゴルフプレイ中に脳梗塞で倒れる。2004年6月に復帰。

2005年4月21日(68歳)5年ぶりの新曲CD

歌手としては5年ぶりの新曲CD『必殺!人生送りバント/飛びます音頭』を発売。坂上の波瀾万丈の半生を題材に、さだまさしが作詞・作曲を手掛けた。

2005年6月4日(68歳)栃木県那須塩原市に転居

栃木県那須塩原市に転居。お笑い芸人の育成学校『那須お笑い学校』の名誉校長に就任。また同時期に、それまで居住していた東京都練馬区(平和台駅前)にも、自らが学院長を務める『総合芸能学院キャメルアカデミー』を開校。

2010年8月13日(75歳)再び脳梗塞で倒れる

自宅の台所で再び脳梗塞で倒れる。首から下が麻痺し、手足が動かせない状況となる。

2011年3月10日(76歳)死去

2011年3月10日午前9時40分、脳梗塞のため栃木県那須塩原市の病院で死去。76歳没。

死後に寄せられたコメント

萩本欽一氏

「悲しい。さびしい。二郎さんのばか」と漏らした。「コント55号は最高だった。二郎さんのおかげで楽しい笑い人生になった。坂上二郎を忘れません」

一番の思い出は何度か出演したNHK紅白歌合戦。ある年、45秒の持ち時間で1分半のコントをした。「“怒られるからやめようよ”って止めたら“笑いなしでは55号は去れない”と言われた」というエピソードを披露。寂しげに「僕の宝が懐から去っていった」「コント55号の幕は閉まりました。二郎さんが天国へ持って行きました。心の中では不滅ですけど」としんみり。「テレビの前では泣かない。二郎さんは僕だけのもの。帰ってから独りで泣きます」と涙をこらえた。

出棺の際、坂上の遺影を抱いた萩本は「元気に見送ってあげてください。坂上二郎さんはただ今、飛びます、飛びました」と言って、長年の相方に最後の別れをした。

関根勤(事務所の後輩で、『カックラキン大放送!!』で共演)

「二郎さんは俺自身のアイドル的存在でお笑いの道を目指すきっかけを作った」

小堺一機(事務所の後輩)

「また、昭和の芸能界の偉大な先輩にお別れしなければならない。残念でさびしい」

『ぴったし カン・カン』で共演した藤村俊二やドラマ『夜明けの刑事』で共演した石橋正次、坂上の物真似を持ちネタとしていた片岡鶴太郎、かつて「デーゲーム」でコラボしたUNICORNなども哀悼のコメントを発表している[16]。

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